旧中村家住宅 たまきや きほんのき

旧中村家住宅 たまきや きほんのき

中村家の人たちとその歴史
  • 初代高遠町長を務めた自治功労者 中村郡治
  • 海外航路を開拓した日本郵船の重鎮 中村鍠平
  • 千人の長野県民をブラジルへ移住させた 中村國穂
  • 「真澄」を揮毫した書家であり画家 中村不折

常設展、旧中村家住宅たまきや
「きほんのき」を、
たまきや店舗内にて
特別展を開催時を除き、常時展示中。

たまきやの歴史と魅力を知る
展示となっています。

お気軽にお立ち寄りください。


建築について

高遠城下は諏訪から伊那へ通じる伊那街道(杖突街道・金沢街道)の宿場町でもあり、物資の集散地でもある重要な拠点でありました。旧中村家住宅「たまきや」は、この高遠城下町の西の入口にほど近い、諸町にある旧町家で、伊那街道に面しています。

屋号は「環谷」または「たまきや」「環谷園」「環屋」「玉木屋」といくつかの表記があります。
中村家は、元禄3年(1690)に高遠城下で商人となった初代中村政常以降、この地で養蚕や薬種問屋等を営んでいました。当時諸町は鉾持村の一部で、中村家は鉾持村の年寄筋の家柄として代々村役人を務めてきました。また、江戸時代末から大正初期までの当主であった五代中村郡治は、明治の自治制が実施されてから初の高遠町長を務めており、中村家は地域の中心的な存在であった家といえます。

この住宅は、表を格子戸で囲み、二階が低く、屋根と一階の庇の間が狭い城下町民家の特徴を備えています。敷地内を西ノ入沢が流れており、敷地が街道より傾斜しているため、地形を利用し主屋の後半には半地階が設けられています。主屋は、間口七間一尺、奥行き七間、切り妻作り、鉄板葺(元とんとん葺)で、正面側に中二階を設けて、下屋をつけていました。これを下屋造りといいます。屋根は、昭和三十年頃に鉄板葺とし、下屋は昭和五十年ごろに桟瓦葺きに改められました。間取りは、通り土間の上手に「げんかんのま」「居間」「だいどころ」。上手奥の通りには、「みせ」「ねま」「きゃくま」と二列に三室ずつあり、その端に入側(いりかわ)が付きました。通り土間の下手は、「男衆の間」「むこうざしき」と呼ばれ、一列に三室が設けられていました。

昭和三十五年(1960)に、数件隣から出火した大火があり、四十七軒が焼失しましたが、中村家は焼失を免れた希少な存在です。

この主屋は、『長野県史』美術建築資料編2建築の編纂の際に、千葉大学名誉教授、長野県文化財保護審議会委員の大川直躬博士によって調査され、十八世紀中期まで遡る建築として高い評価を受けています。また『高遠町誌』では元禄の頃の材料を使用し建て替えをしているとの記載があります。

旧中村家住宅たまきやは、平成28年に当時の所有者より伊那市に寄贈されました。市の施設として改装された後、平成30年より公開、利活用されています。

復元図面
改装前図面

中村不折とたまきや

中村不折は、明治から、大正・昭和期に活躍した日本の洋画家で、夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵をはじめ、島崎藤村『若菜集』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀・挿絵などでよく知られています。一方で、書家・書の蒐集家としても著名で、台東区・根岸の旧宅跡は、書道博物館(現:台東区立書道博物館)として開かれ、不折の蒐集した膨大な書道資料を閲覧することができます。

不折は幼名を鈼太郎(さくたろう)といい、江戸の京橋八丁堀に生まれましたが、明治維新の混乱を避け、父の郷里の高遠へ帰ります。たまきやの数件となりに住んでいたようです。(大火のため焼失)不折が五歳の時でした。たまきやは不折の母りゅうの実家です。幼少より絵を好み、物の形を写すことを楽しみとしていました。家が貧しかったため、十一歳で松本の商家の小僧、十三歳で上諏訪町の呉服屋の年期奉公を務め、十六歳に再び高遠に戻り菓子職人になります。

しかし元来学問が好きなため、独学で数学を学び、北原安定に漢籍、南画を土地に居住の画家・真壁雲郷、書を白鳥拙庵に師事し、十八歳の時に小学校準教員の検定に合格し教員となり。高遠、伊那、飯田の教員として務めたのち、洋画の手ほどきを受けていた河野次郎から「洋画を本格的に勉強するなら、東京に行くように」と勧めを受け上京しました。

上京後、五代 中村郡治の嫡男であり、不折の従兄弟にあたる六代 中村鍠平と仕切りに互いの家を往来し合い、兄弟以上の付き合いをしていたそうです。鍠平は日本郵船の重鎮として、外国航路の開拓に尽くした人物です。

書家としても名を馳せた不折の書は、独自の大胆で斬新な書風を展開しました。明治41年に書かれた、いわゆる“不折流”のデビュー作となった『龍眠帖』は、著名な書家から酷評され、書壇で大論争を巻き起こした問題作であり代表作でもあります。印象的で一風変わった不折の書は、そのデザイン性の高さと親しみやすさから、店名や商品名のロゴに用いられることが多く、現代でも目にすることができる「新宿中村屋」「真澄」「日本盛」「神州一味噌」「筆匠平安堂」などがあります。また、森鴎外の墓石に刻まれた「森林太郎」の字も、不折の揮毫によるものです。
現代であれば、商業デザイナーとも、フォントデザイナーの役割としても活躍していたといえるのではないでしょうか。
高遠町内でも「高遠図書館」など、随所に不折の書を見かけることができます。

不折の書は、「たまきや」に多く所蔵されておりましたが、現在は高遠歴史博物館内に保管されており観覧することができます。

参考文献

「高遠町中村家住宅 建築史資料調査報告書」 
信濃建築史研究室 吉澤政己
「上伊那史」
「長野県史 美術建築編」
「城下町高遠 故郷諸町の歴史と文化を後世に」諸町町内会


画像提供

中村不折像・龍眠帖 
伊那市立高遠町歴史博物館


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